目の前に掲げられたそれを見て、視界が真っ白と真っ赤の同時に染まる。
 彼岸の花が彩られた。
 女物の櫛。
 今では唯一、あの人と自分を繋ぐもの。
「―――!!」
 食人衝動時など足元にも及ばぬほどの勢いで、手を伸ばす。
 けれど、無理だ。
 理性という名のヒューズが飛んでいる自分は忘れていた。
 "董奉"に両肩の関節を外され、摩耗する意識の中で見たのだということを。
 痛めつけた理由は、化け物調教の他にこれを見せることを決めていたせいか。
 怒りで失神してしまいそうな意識を、無理矢理繋ぎとめる。
「董奉!!」
 獣が、吠え掛かるよりもなお鋭く。激しく。
 激を飛ばす。
 触れるな触れるな、それに触れるな。
 唯一、死んでいる中で唯一。
 自分を繋ぐ思い出の品を。
 貴様如きが穢すなと。
 憎悪に満ちた瞳が、下肢に力を込めさせた。
 上体が動けば軋む肩なぞ構わずに、振り上げる足が董奉の胴を狙う。
 だが、小気味良い音を立てて攻撃は防がれた。
 流れる動きは、防御だけに留まらない。
 気力で振り上げて威力を増させていた身体は、軸足を払われてあっさり再度地に伏してしまった。
 モーションが、一般人から見れば自然すぎて派手に上がった声も、呻き声も、いっそ不自然であったことだろう。
 受身を取ることも出来ずに転がる思徒の肩に、革靴がそっと乗った。
 今は押さえつけられていないが、手向かえば直ぐに力をこめて肩の骨を砕いてでも止めるだろう。
 "董奉"との付き合いは短く無い。
 歯噛みしながら、床に伏せられたままの体勢を取った。
 見下す男は、そんな此方の心境など構う様子さえ露にすること無く仕方ないものを見るように視線を下げてくるだけだ。
「やれやれ。お行儀が悪いですよ。思徒様?」
「ベティ二号や他のものに手を出すのは、譲りたくないが眼を瞑ってやろう。だが、それは………!」
 それは。
 あの人、の。
 唯一愛した、あの人、の。
 母さん、の。
「気持ち悪くありませんかねぇ? 実の母親ですよ? しかも、もう生きていない」
「お前達の実験体にされたせいだろうが………!」
 そう、その通り。
 全ては徐福という意識が生んだ、化け物のため。
 そのためだけに用意された器。
 化け物を産む化け物にさせられてしまった、哀れな女。
 そんな女を、愛しているなんて。
 たった一人のためだけに、どんな屈辱も砂を噛む思いで耐えるなんて。
「難受(気持ち悪い)」
 男の瞳に、冷徹な色が混じる。
 冷ややかな瞳が紡ぐのは、同じように温度などまるでない一言。
 短くそれだけ言って、床へ櫛を放る。
 手指から、黒い櫛が零れ落ちかけて―――、息を呑む音と、心臓の激しい音を聞いた。




 カツ ン。




***
 この人に奥さんがいるってのが信じられない。


蜘蛛の糸より果敢ない




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