兄皇子編



 
 引っかき傷に似たものが、夜に浮かぶ。
 漂うようにするわりに、肉眼ではぴくりとも動いていない。
 夜も更けきったというにも関わらず、ルルーシュはその薄い肩になにもかけぬまま窓辺に添うていた。
 鍵のついていない扉が、叩かれる。
 重い色をし、夜の藍色にとけてしまいそうな長い長い黒髪をたゆませて、その扉の前に立つとそっと開いた。
「やぁ、ルルーシュ」
「お久しぶりです。シュナイゼル兄上」
 淑女らしく控えめな礼をすれば、兄は入っても良いかな、と、声をかけてくる。
 それに覇気の薄い声でどうぞ、と促されるのが、既に見知りすぎるほどに見知った妹の居室。
 美しく波打つ、床を這ってなお長い髪を踏むような愚はなく、そっと一揃いしかない椅子に腰をかけた。
「兄上、お茶は?」
「いや。もう夜だしね」
「わかりました」
 言って、足音も僅かにシュナイゼルの向かいに座る。
 ルルーシュは、この兄が苦手だった。
 嫌うというほど、なにをされたわけではない。
 穏やかに好感の持てる相手は、本来ならば好きという感情が占めていなければおかしいはずだ。
 けれどルルーシュは、この男が苦手だった。
「ルルーシュ、ナナリーの容態なのだけれどね」
「………はい」
 きゅ、と、膝の上で拳を握る。
 一進一退の容態のまま長期を過ごしている妹は、彼女にとっての支えである。
 何故か兄は他の人間からナナリーの様子を話されるのを嫌がり、直接確認に行くために塔を出ることを厭った。
 援助をし、保護をしてくれている第二皇子の機嫌を損ねることだけは避けたい。
 ゆえにルルーシュは、逢いに行きたいのを堪えてこの塔の中に四六時中いる。
 無害だから、無益だから。
 どうぞ構うな、放っておけ。
 人形だと、笑わば笑え。それだけのことが、何故出来ない。
「矢張りまだ安定しないらしい。不安だろうが、君に逢うということが、どんな刺激になるかもわからない。それによって、他の貴族や皇族たちがどう動くのかもね。だから」
「安心なさってください、兄上。私は、此処に居ます」
 ずっとここに。
 ナナリーの無事さえ、保証されるのでしたら。
 彼女さえ、生きてしあわせに笑っていてくれるのでしたら。
 他のことは何一つ。望むことなど、無いのです。
「辛抱をさせてしまって、すまないね」
「兄上こそ。私達姉妹を、心がけてくださり、ありがとうございます」
 静かに礼をするルルーシュに、シュナイゼルは微笑んだ。
 優しい笑みだ。穏やかで、きっと、大半の女性は熱っぽい吐息を零すことだろう。
 けれど彼女は矢張り、苦手だった。
 理由はわからない。
「―――随分と、痩せた」
「そうですか?」
「嗚呼。ちゃんと食事をしなければ駄目だよ、ルルーシュ」
「気をつけます」
 シュナイゼルの指先が、黒く長い髪をそっと取る。
 サイドの髪は、その細い面に沿うように切られていたためか、彼女の胸ほどまでにしかなく、僅かに彼が身を乗り出すような形になり髪先へ口付けることになった。
「ルルーシュ」
「………はい?」
「私はお前を、愛しているよ」
「………ありがとうございます、シュナイゼル兄上」
 ぱらり、手指が髪から離され、代わりに頤を掬われる。
 そのまま、なんの躊躇いもなく口付けが落とされた。
「愛しているよ、ルルーシュ」
 困惑などまるでしていない紫色の瞳にもまた、口付ける。
 瞳を閉じずにいる、気丈さは母譲りかと、薄く微笑んだ。
「また来よう。見送りくらいはしてくれるかな?」
「それがあなたのお望みでしたら」
 では、ほんの数歩分のエスコートをさせておくれ。
 言って伸ばされた手に、ルルーシュは自分の手を重ねる。
 どちらの手も、冷たかった。
 口付けで熱など、生まれない。



***
 恋愛対象かどうか、物凄く微妙なシュナイゼル兄様でした。
 あのひと鬼畜とか真っ黒とか人でなしとか、色々思うのですが。
 どうにも難しいです。





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