世界が闇に包まれて、まず彼女が感じたのは安堵だった。
 嗚呼、もうこれで見なくて良いのだ。
 銃撃に割れるステンドグラスも。
 血が流れ染みていく絨毯も。
 幼い自分を守ろうとし鉛の雨に身体を跳ねさせていた母も。
 嗚呼、もう、見なくても良いのだ。
 見られなくなったのだから、見なくてかまわないのだ。
 そう、思ったその日。
 病院のベッドの上で、彼女は身を丸めて己の卑劣さに泣いた。


「お兄様」
 きぃ、と、車椅子が軋む。
 車椅子は、軽量化を図られているとはいえそれなりに重量のあるものだ。
 自身でタイヤを回すこともあるが、ナナリーの細腕では長時間移動するのには向かない。
 故に、彼女が使用しているのは電動車椅子だった。
 仮にバッテリーが切れたところで、大抵の場合クラブハウスから出ないナナリーには咲世子がいる。
 問題はなにもなかった。
 彼女は、とても優しい腕の中で羽に包まれるように庇護されていた。
「どうしたんだい。ナナリー」
 すぐに立ち上がり、六歩目でしゃがんでくれる足音と気配。
 笑顔よりも穏やかな表情の兄に、彼女もまた微笑みかける。
「お風呂。あきました」
「ああ、わかった。……ナナリー、髪がきちんと乾かせていないぞ」
「え? そうですか?」
「まだ寒いんだから気をつけないと」
「はぁい」
「今ドライヤーを持ってくるから」
「お兄様がしてくださるんですか?」
「俺じゃ嫌かい?」
「まさか!」
 じゃあ、少し待ってて。
 短く言って、脇をすり抜けルルーシュが室外へ出て行く。
 洗面所へ行って、戻るまで数分もかける必要はないだろう。
 それでも、くるりと周囲へ気配を走らせるには十分だった。
 明らかに、なにかが雑然と増えていっている。この部屋に限らず、クラブハウス内は咲世子が清潔に管理してくれている。
 彼女の仕事ぶりは、自身の介護を鑑みるまでもなく素晴らしい出来だ。
 室内に咲世子を入れていないのか? 何故?
 見られては困るものがある。なにを? 最近、クラブハウスにも帰れないほどの理由。
 テロリスト達の活動。
 思考は、階段を上がってくる微細な足音で霧散した。
 くだらない、ことだ。兄がたとえなにをしていようと、止める術を持ち得ない。守られるしか能がないとは思いたくないが、現実は彼女に 逃れることを認めない。
 ナナリー自身も、よく理解している。もしもなにかあっても、気配でなにか察知することが出来ても。
 強襲を受ければまずまちがいなく、自分の命は無い。
 回避する術がないのだ。
 恐ろしい過去からの回避は、現状と未来からの回避能力を奪い続けている。
 それでも、ナナリーは過去から逃れる方をとったことを間違いとは思わないのだけれど。
「少し涼しい風が吹くけど、すぐに暖かくなるからな」
「はい」
 震える音とともに、柔らかい質の髪が熱風を受けて揺れていく。
 兄の丁寧な手つきに、風呂上りのあたたかさも相俟って眠くなってしまいそうだ。
 うつら、と、意識が一瞬途切れかけたところで、短く名前を呼ばれた気がして、「はい?」と、答える。
 彼自身、ナナリーは半分眠っているものと思ったのだろう。
 少し驚いたようだったが、すぐに言葉を口にした。
「ナナリーが見ても、怖くないやさしい世界がはやく出来るといいね」
「はい。………でも、むずかしいです。きっと」
「難しいけど、頑張るひとはいるさ。……ゼロ、とか」
「黒の騎士団のひとたちも、弱い人の味方なんですよね」
「そうだね」
「なんだか、お兄様みたいです」
「俺は、あんなにすごくないよ」
「でも、お兄様は私の傍にいてくれて、ずっと私を守ってくださってます」
「アッシュフォードの力を、借りている」
「はい。アッシュフォード家の皆様には、感謝してもしきれません。でも、病院へ一番に来てくださったのも、一番に大丈夫だよ、って言って くださったのも、私を抱きしめてくださったのも、ぜんぶ全部、お兄様です」
「ナナリー……」
「怖い世界から、ずっと私を守ってくださっているのはお兄様。―――だから」
「――?」
「はやく、お兄様にもやさしい世界が訪れますように、って。私、お祈りします」
 心からの、祈りの言葉。
 心からの、願いの言葉。
 見えないことに、安堵した。
 母の死は、悲しいことである前に恐ろしいこととして認識された。
 母の死が怖かった。
 どうなってしまうのかわからなくて、恐ろしくて、その恐ろしさに泣いた。
 母の死を嘆けたのは、それこそ日本へ送られる直前だ。
 そこに至ってようやく、母がもういないのだと泣けた。
 それよりも、自分の身に起きたことが怖かった。
 母の死を、"そんなこと"としてしまう自分が卑劣で涙した。
 涙をぬぐってくれたのは、兄だ。
 大丈夫だと言ってくれたのは、自分が目になるのだから怖いことはなにも無いと言ってくれたのは、抱きしめてキスをくれたのは。
 全部ぜんぶ、兄だ。
 だから、
「………ありがとう」
 優しい手で頭を撫ぜてくれる兄の言葉に、いいえ。とゆるく首を振るった。
 笑っているような、泣いているような気配を、兄から感じて。
 ナナリーは、久しぶりになにも見えない我が目を疎んじた。
 もっとも、兄はとても美しい様をしているだろうことは容易に想像がついたが。



***
 ブラコンナナリーが書きたくなったので。
 R2のナナリーはどうなんでしょう。嗚呼、胃がぎりぎりするぅ………ッ!


あなたに空を、




ブラウザバックでお戻り下さい。