あれ? 小首を捻り、スザクは鞄の中身を改めて見つめた。 数学のノートは、明らかに自分のものではない。ルルーシュのものだ。 一昨日借りて、昨日は軍務。 今日は数学の授業がなかったけれど、明日はある。課題も出ている。 もしや、返しそびれたのか。 現物がここにあるのだから、そういうことなのだろう。 慌ててノートを掴むと、寮を飛び出した。 既に門限は過ぎていたが、夜勤の同僚に言えばあっさりと通行許可を出してくれた。 いくら小隊で持ち回りになっているとはいえ、夜勤や準夜勤など歓迎されない任務はナンバーズがまわされ易い。 今日もそうであったようで、夜勤の守衛についているのはナンバーズの同僚だった。 彼らは、騎士となりイレヴンの評価を地の底から引き上げてくれたスザクに対し感謝のような念を抱いている。 融通を利いてくれるのは、そういう理由もあったがなにはともあれ今回は助かった。 ノートを小脇に抱え、彼は短いながらもクラブハウスへの道を全力疾走した。 暗い学園の敷地内に、それでもぽっかりと浮かぶライトが印象的である。 流石にナナリーは眠っている時間だろうかと思いつつ、ドアノッカーを数度叩いた。 ほとんど待つことなく、未だメイド服の咲世子が顔を出す。 少々訝しげな様子であったのは、彼らの出自故に時間外の来訪者を警戒しているせいだろう。 スザクとわかれば、すぐにいつもの穏やかな面持ちに戻った。 「どうなさったんですか?」 「遅い時間にすみません。ルルーシュに、届け物があって」 「まぁ。今お茶を入れますから、リビングでお待ちください」 「いえ、ノートを届けに来ただけですから。渡しに行きますね」 相変わらぬ笑顔で言って、メイドの脇を綺麗に擦り抜ける。 止めようとした彼女の手は空を掴み、笑顔で言い切ったものだから声をかけるのも一瞬呆気にとられて出来なかった。 リビングで待ってもらう、ということが、彼には主の了解を得てハウス内に招き入れること。というのを理解出来ないようだった。 聊かの躊躇いの後、とりあえずのように紅茶を用意しにキッチンへ足を速めた。 いざとなれば、お茶を用意したといって室内へ入れば良い。 有能なメイドは、それでも手抜きのない紅茶を用意しはじめた。 一方、慣れた調子で階段を登りルルーシュの部屋の前に来たスザクはノックと共に室内へ入った。 ノックをする必要が、まったくないことに気づいていないのはお約束というものだろうか。 既に一度ルルーシュに注意をされていたが、意に介す様子は微塵もない。 「ルルーシュ、入るよ。借りてたノート……」 常と変わらぬ口調で言えたのは、そこまでだった。 彼の私室は、お世辞にも広いとはいえない。 いくつもの部屋が連なるユーフェミアの私室とは異なり、勉強も睡眠も娯楽も一室で賄われている。 ある意味、一般市民なのだから当然といえば当然の部屋だ。 その部屋の中でも、多くスペースを取るベッドの上に二人はいた。 一人は、もう一人を膝枕にすぅすぅと穏やかな寝息を立てて眠っている。安らかなその寝顔は、どこまでも安全を確信している表情だった。 この部屋と、この家の主であるルルーシュである。 彼がここにいるのは、おかしくない。 異質なのは、もう一人の存在だった。 「………なんでロイドさんがここに……?」 「あれ? なにやってるの。枢木少佐」 カチカチと脇にノートPCを置き右手でキータイプをしながら、左手はルルーシュの髪を撫でている。 その器用さに感動を覚えながら、そういえば彼は食事をしながらでも仕事をすることを思い出した。 手つきは優しく、それでいながらタイプ音は止まらない。 一度視線をこちらにやっただけで満足したのか、ロイドはまた作業に戻る。 興味もなにも、なさそうな態度だった。人間を概念でしかとらえない彼らしい、といえばそうかもしれないが。 「……僕は、ルルーシュにノートを返しに……」 「あぁ、数学のでしょ? 貸したまんまうっかりしてたって言ってたからねぇ。机に上に置いておけば? 後で僕が言っておくし」 起こすには忍びないと、髪を撫でれば擽ったのか少しばかりルルーシュが身じろいだ。 頭を振り、膝へと額を擦り付ける姿は高貴な猫のようである。 他の誰にも懐かないくせに、たった一人にだけは奔放に甘えて気を許す猫。 そのたった一人の例外が、自分だと。 彼の事情も、おそらくはアッシュフォード家に隠しておきたかった日本での事情も、ナナリーを心配させまいとする姿も、知っているのは自分 だけだと、なんの根拠もなく信じていたのに。 違ったのではないかと、今の瞬間で疑えてしまった。 疑わざるをえないと、思ってしまった。 「ルルーシュを、起こしてください……。直接返します。ロイドさん、仕事、残ってるんじゃないんですか……。セシルさん……探して」 「起こすのはだーめ。こんなにゆっくり眠ってらっしゃるんだから、悪いだろう? 仕事は今やってるよー。セシルくんには、明日このデータを 渡すから問題なぁ〜し」 やらないと怒られるから、と言われれば、誰に。なんて、聞くまでもない。 「……いつの間に、ルルーシュとそんなに仲良くなったんですか」 硬い声音を、知られないようにするのに必死で。 握り締めたノートに爪痕が残ったことにも、スザクは気づかない。 「それは―――」 不意にあげられた視線が、冷たい。 機械の無機質さというより、軽蔑であることを本能が悟った。 なにかを紡ごうと、乾いた唇を開く。 何を語ろうというのか、それはわからない。 むしろ、弁明のような弁解のような言い逃れにさえ、似ているかもしれないけれど。 けれど、なにかを言おうと、語を重ねようと口を開く。 何かはわからない『何か』を、ロイドの口から発せられることを、恐れるように。 「それは、お前に関係あることか。スザク」 「……ッ、ルルーシュ」 「申し訳ありません。起こしてしまいましたね」 「構わない。寝かせておくほうが問題だぞロイド。俺は、時間になったら起こせと言ったのに。十五分も過ぎているじゃないか」 「よく眠っていらっしゃったので、起こすほうが悪いかと思って」 「起こさないほうが悪い。嗚呼スザク、お前の用事って、どうせ貸していたノートだろ。課題は終わってるのか」 「あ……問三の公式が、どれも違うようでわからないけど、それ以外は。なんとか」 「ふん。お前にしては上等じゃないか。明日、授業はじまる前に来れるか? 教えるが」 「どうだろう。昼休み、ギリギリに学校になっちゃうかもしれないんだけど」 「ロイド。どうなんだ?」 「明日は、新しいエネルギーパックの試作品が来るんで時間ギリギリまでシフト組んじゃってまぁ〜す」 「―――一応とはいえ、スザクは学生じゃないのか?」 「それは僕らじゃなくて、枢木少佐の主に仰ってください。いくら騎士侯とはいえ、一応彼も騎士なんで公式の場には枢木少佐も必要なんで すもん」 僕らだって困ってるんですー、と、唇を尖らせるロイドの頭を、紫電の瞳が労わるように撫ぜた。 それだけで、蕩けるような笑みを科学者は浮かべる。 「相応の努力はしますよ。我が君も、それで宜しいですか?」 「十分だ」 「良かったねぇ、枢木少佐。明日、もうちょっと早く学校行けるかもよ? ま、君の頑張り次第だけど」 先に見せたスザクの視線とは、明らかに違う色。 けれど、こちらが偽りであることは最早疑うべくも無い。 「ほら。お前も早く帰れ。今日は泊めてやらないからな」 「えぇ〜〜。お傍にいたいですよ〜〜」 「お前を泊めると、C.C.が五月蝿い。あれの文句を一緒に聞くなら、考えてやるが?」 「あんまり無理言っちゃ、失礼ですね。帰りまぁす」 「薄情者め」 言うけれど、言うほど彼が怒っていないことはわかった。 穏やかな面持ちで、柔らかい藤色の髪を撫ぜる。 優しい手つきの彼など、ナナリー以外にはありえないと勝手に思っていた。 「………ルルーシュッ!」 「どうした? スザク」 穏やかな声は、自分が知っているもの。 自分と、ナナリーくらいしか、知らないと思っていたもの。 けれどもう、それだけが知っているわけではないと、知った。 胸に嫌なものが宿る。 例えばそれは、気に入りのものが本当は他人の腕に囲われるものだと知った昏い絶望感に似ているだろうか。 「ロイドさんは……。その、知ってるの?」 正体を、本名を、日本での境遇を、祖国より放逐された理由を。 知っているのかと。 問うベリルの瞳は、何故か否定を求めていた。 「それは、お前が知るべきことか? ユーフェミアの筆頭騎士殿」 ルルーシュは、否定も肯定もしないかわりにそれだけを言った。 半歩と言わぬ距離を、ロイドが詰める。 そっと寄り添う姿は、覚えがあった。 ―――退け。 暗澹とした感情が、首を擡げる。 ―――退け。 そこは、自分の場所だったのに。ルルーシュの隣には、七年というブランクがあろうとも自分がいたはずなのに。 何故、自分が離れた場所で見ていなければいけないのか。 引き剥がしたい衝動に駆られた。 それが何故かなんて、知らない。 それが今更なんて言葉、わかっていないまま。 ただ、邪魔で、邪魔で、どうしようもない排除感情だけが、スザクの中を荒れ狂っていた。 *** りくえすとあんけーとより、エンさんより頂きましたので書いてみました! スザクに痛い目見てもらおうと頑張りすぎて長くなりすぎ、無駄っぽいところを削ってもまだ長いですすいませんorz |