チェック。 無情な声が響いた。 チェスボードには、どうあっても現状を覆すだけの力は無い。 チェスチェアに浅く座るのは、勢い込んでのことではない。 ただ、少年が深く座ってしまっては、チェスボードに手を伸ばしても上手く駒を動かすことが叶わないのだ。 数度ボードと少年の顔を行き来していた男が、口元を戦慄かせる。 それは果たして屈辱であるのか、戦慄であるのか、憤怒であるのか。 ルルーシュにはわからぬことであったし、興味もなかった。 「リザインしていただけますか?」 ポーンをそっと進められていたことには、気付いていたはずだった。 けれど、手前の攻防に精一杯でそちらに意識を回す余裕がなかった。 気付けば、歩兵は最大兵力と変身し、易々と首を狙ってきてくれている。 対処は、なにか。どれか。 必死で黒と白の升目を見やるけれども、最良の手はどこにも書いてくれていない。 もう一度、男は少年を見やった。 十歳前後のその少年は、傍目から見ても大変麗しい。 黒い艶やかな髪も、深い紫紺の瞳も、幼けな矮躯も、一過性のもの以上の美しさを秘めていた。 だが、男の瞳にはもう一つ。 今なら確実に映すことが出来る。 少年の瞳は、笑ってなどいなかった。 どこまでも底冷えする冷徹さを讃え、口元は笑みを刷いているというのにどこも笑ってなどいなかったのである。 容赦の無さが、伺えた。 「………リザインだ」 「ありがとうございます、サー」 言うのと同時に、紙を一枚チェスボードの上に置かれる。 動かし辛くなったような意識を無理矢理、その紙へ向かわせた。 「お約束の金額は、この口座によろしくお願いします。期日は三日以内、期日以内に入金が確認されない場合は、社交界での地位が失墜 するものとお思い下さい」 「………っ………」 「庶民の子? 排斥された皇子? どうぞご勝手に吹聴なさっていただいて結構です。そういう噂話を、まだしていたいのでしょう?」 母が庶民出の騎士侯だったから、妃に取り立てられた。 後宮では、散々言われていたことだ。 それに、母は母でしかない。優しく、気高く、賢く、品の良い、自慢の母だった。 身分など関係ない。それが、ブリタニアという国とあわなくてもルルーシュには関係なかった。 むしろ、他者を嘲るしか能の無い貴族たちと並列にされることのほうが屈辱である。 「………殿下」 「サー、僕はもうブリタニア皇族から排斥された人間です。あなたもご存知のはずだ」 「こうまで聡明なあなたを、我ら貴族と同化することは出来ますまい」 男はチェスで負けたことなど、ほとんどない。 サロンには、彼のチェスの手を見ようとする人で人だかりが出来るほどだったのだ。 己の腕には自覚があった。 だからこそ、彼は惜しむ。ブリタニア皇族から、未だ少年の域を脱さぬというのにここまで聡明な少年が排されたということを。 「ありがとうございます。あなたが、ヒトとして理性ある方でよかった」 「おや。もしや、レグランド家の次男坊が社交界に二度と出られなくなってしまった件は、あなたに関係が?」 「さて? それはあなたの想像力にお任せしますよ」 くすりと、少年が冷笑する。 男は敵わない、とばかりに肩をすくめた。否、実際、チェスはまるで敵わなかったけれども。 「もしもなにか御座いましたら、いくらでも連絡を。あなたが打ち手として、もしくは違うものとして、どう成長なさるのか。老後の楽しみとさせて いただきますよ」 「まだ、そんなお歳ではないでしょう。……ですが、ご好意はありがたく受け取っておきます。それでは」 「ええ。また、お相手をお願い出来ますかな。今度は、賭けチェスではなく。私に教えてください」 「僕の授業料は高いですが。それでよろしければ、いつでも喜んで」 冗談めかすように言って、少年は去った。 見届けてから、重くチェスチェアに腰を下ろす。 十歳を僅かに過ぎたばかりの少年であろうに、あの覚悟の瞳。 気合が違った、意気込みが違った、はじめから所詮子どもと、舐めてかかっていた自分とは大違いだった。 余裕でありながら、必死。 瞳の苛烈さと、けれど拭いきれぬ酷薄さ。 男は、心配げに去った扉を見つめた。 覚悟の決まっている人間は、とても強い。けれどそれは、諸刃の刃だ。 いつか自分の命さえ、賭けの天秤に乗せてしまうのではないかと。 既にルルーシュの影も掠らぬ扉を、見つめ続けていた。 *** 連載三話目。 最初はルーベンの知り合いや、あと社交界やサロンでチェスの強いヒトを相手にしていって顧客作りです。 勿論内容は賭けチェス。お金も稼いで、人脈も作れる。欠点は人脈より恨み買い捲ること。 |